2020/12/22 父の回顧録②

父さんの父(祖父)の金次郎は脳溢血で倒れた。その後遺症でうまく体が動かず、鼻からずっと血を流していたらしい。家でリハビリできたのに何もせず、ずっと病院へ入って療養していては追い出されてを3,4年程繰り返して、最終的に亡くなった。昔聞いた話では、血だらけのちり紙とお金を病床に残して亡くなったそうだ。祖母はずっとその面倒を見ていた。

 

曾祖父の清十さんの話。清十(せいじゅう)さんは元々は教員だった。しかし材木屋を志し、愛知の会社へ修行に行った。そこで仕事のイロハを叩き込まれ、後に戦後の材木不足の際に大稼ぎした。今の恵比寿のあたりに工場を設け、御殿山に住んでいたそうだ。子供は6人で、父の母(祖母)のきみ江さんは長女。慶応に縁のある人間が多かった。うちは教師と役人が多かったとのこと。恵比寿の工場は木のコンテナを作っていたが、ある時事故で工場の煙突が倒れ、周りに被害を出してしまった。そのことを悔んだ清十さんは工場を引き上げ、静岡へ帰った。その際に作った家は伊勢神宮と同じ素材で作られている(真偽のほどは定かではない)。亡くなる際は胃癌と肺がんを患い、静岡の家で無くなった。奥さんはもっと前にこたつで座りながら亡くなったらしい。二人ともきみ江さんが最期までお世話をした。

 

続く

2020/12/07 父の回顧録

私の実父である弘のさらに父(祖父)は吉田出身。元々は大石という姓で婿養子に入った。母は生まれつき右目を失明していたため、結婚してくれた父に感謝していた。父は県庁の職員として予算を監査していた。キャデラックとアメ車を乗り回していた。大石家は御家人の長であったが、時の潮流で武士としての身分を奪われた際に牧の原に茶を植え生産するよう指示し皆の食い扶持を作った先進的な家柄でもあった。

父の母(祖母)はとても強い人間で、ある時知人の家で精米機を借りていたところ、持ち運びの容器が回転に巻き込まれ、人差し指?の第一関節が潰れてしまった。大変な悲鳴をあげ、精米機の持ち主が急いで自転車の後ろに乗せ、大病院まで運んだ。母は「くっついた」と言ったが手術で切断され無くなった。持病で失明していたことも感じたことはなかった。一度だけ味噌汁を父に手渡ししようとして誤り、ひっくり返してしまった。父は「なんたるザマだ!」と激昂したが、弘は、目が見えないんだからそこまで言うことはないじゃないかと子供ながらに抵抗を感じていた。目が見えないことを母はコンプレックスに感じていたのだろうと思う。学校の行事に来たことはなかったと思っていたが、一度、リレーの選手になったと言ったら、その瞬間だけ現れてすぐ帰ったらしい。

 

つづく

2020/11/19 振り返る

なぜか今ラオスにいる。

いや、なぜかというのは適切じゃなくて、もちろん理由があって自分で選択した。

原因は自分ではないんだが、まぁここで語る必要はないだろう。自分が原因ではないことに対して行動することに抵抗がなくなったのもここ最近のことで、確かな変化だと思う。

 

ところで、何を振り返るのかということだが、この部屋に着いた瞬間には排水溝から下水の匂いが漂っていたガラス張りのシャワールームでシャワーを浴びながら、さっき考えていたことだ。

 

つまり、何を諦めてきたのかということ。

本当は将来のことを考えていたのだけど、いつの間にかそうなっていた。

 

親父に、最近は自分の仕事と併存できるならば、親父の仕事の一部を担っても良いと考えていることを伝えようと思っていたのだけども、そもそも今の環境がそういったことを許すのかと疑問が出てきた。会社が許さなければ個人で請け負えばいいやとも考えていたけれど、それも委託元の候補からすればどうなのか、自分にそれ程の有用性と希少性があるのだろうかという気になってきた。

一年半程掛けてきた仕事で、確かに結果は出したのだけど、それが一体何なのだろうか。そもそも、何がやりたかったのか。

 

大学時代は建築の勉強をしていて、一つは美大が面白そうだと思って入学した。選んだ当初は漠然としたものだったが、入学した初期は、どんなに短時間で考えたことでも発表すると一つのシステムや現前する考え方のように映るところに面白みを感じていたのだと思う。但し2年目にしてそれは突如として限界を迎え、建築そのものという課題にぶつかることになった。つまり、建築とは何かということ。その問いに答えるためには、建築という今まで考えたことのない存在に対してアプローチせざるを得ず、今まで自分の中に包括されていた気になっていたものが突如として異化して目の前に現れ、理解し対抗する術を持たないことに打ちひしがれてしまった。これを、自分という存在が世界から爪はじきにされたように感じていたのだろう。そしてそれが社会という姿をしているという風に勘違いしていた。さらにまずいことに、僕には「物理的に構築する」ということにおいての実務的な能力が著しく低かった。

この件については、まぁその後について大きく語るところはない。大旗さんと出会って友達になったことで、自分も世界に含んでくれる人間が建築をしてくれるならば、それを自らやる必要はないと感じてしまったことが、一つのまとめだと言えるだろう。今思うと自分の考え方の癖だと思う。

 

さて、その後の紆余曲折ののち、僕は自分というものを再起動させるためにとにかく当時興味のあることに取り組もうと考えた。それが家具だった。

純粋に最も興味のあることだったかと言われれば、どうだろうか。言葉を使った表現と、機能と非機能が一体となった立体物の製作と、どちらも興味があった。というか自分のなかで取り組みたいことだった。ただ、言葉を使って生活するというイメージができなかった。職業として思いつくのはコピーライターくらいだったが、なんとなくそれでは今までのままドツボにハマりそうな予感がしたし、建築の模型バイトをしていたので、立体物を作って賃金を得ることはなんとなくできそうな気がしたし、立体表現というものや考古学に近しい民藝の考え方に傾倒していたのもあった。

 

で、そこに至るのもまぁ色々とあったのだけれど、結局僕は家具職人になりかけた。

なりかけた というのは、一応はなったのだけれど、辞めた。表向きは社長と折りが合わなかったという理由なのだけれど、実際のところはどうだろう。

僕が辞めた時の気持ちはこうだ。「社長の言っていることが正しくない、許せない、ということよりも今我慢して家具職人として独立して好きなように好きなものを作りたい という気持ちを優先できなかった。」

これには自分自身とても傷ついた。家具を作ることが好きではなかったのではないかという疑心暗鬼にも陥った。

結局は、自分の気持ちを優先して組み立て直して得た環境や時間でさえ、他者から糾弾されることで奪われ、また世界から爪はじきにされてしまったと感じたのだ。また、結果的に自己否定するような行動をしてしまったわけだ。

 

そして、その後はそうやって恣意的に選択をすることをやめて、今になる。

 

今になって振り返って、この時のことは一体何だったのだろうか。

それが分かったような気配がしたので振り返りたかった。

 

続く

 

2017.09.06

圧倒的にアウトプットが足りてない。

吐露というのがふさわしい。吐き出す場所が足りないんだ。

頭で考えたものを説明するのではなく、運動するように部分を繋いでダンスしたいんだ。

 

2017/08/20

努力すれば素晴らしい人間になれると思っていた。

今日は神宮前の花火大会で事務所の近くは交通規制が掛かるらしい。部長は早々に帰っていった。

 

素晴らしい人間になるために意識していてもしょうがない。自分に誠実になることが遠回りのような近道になることもあるんじゃないか。

20170711

喧嘩をする。嫌味を言われる。頭にくる。愚図、作業が遅い、帰りが遅い、遊んでいる。わたしは色々考えてやっている。なぜ合わせなくてはいけない。朝早いから。なめんじゃねえ。サポートしている。

わかったから、わかったから本当にためを思うなら一人にして放っておいてくれ。

あなたと一緒に笑わなければ僕は合格します。